天才軍師 黒田 官兵衛
天才軍師 59 年の生涯
1546年 兵庫県 播磨に生まれる。(播磨とは)東・中・北・西播磨合わせた地域
21才 光 と結婚
22才 長政が生まれる
31才 秀吉に 姫路城を明け渡す
32才 荒木村重に捕えられ幽閉される
33才 1年ぶりに救出され帰国
37才 賤ヶ岳の戦い
43才 長政に家督を譲る
44才 小田原城 落城
46才 朝鮮出兵
54才 関ヶ原の戦い
59才 京都 伏見 にて死去
現在の姫路城は江戸時代初期に池田輝政により改修されたもの。
秀吉時代の規模は小さかった。それ以前に官兵衛が統治していた頃はさらに小さく、石垣や天守も存在していなかった。
黒田氏の立身の秘密は、商売上手にあったとされる逸話がある。
小寺氏に使える傍ら、広峯神社の加護を受けた「目薬」を売り出し、財を成したとされている。
斉藤道三もしかり、江戸時代の講談等で広まったものだと考える。
鋭い経済感覚を身につけていたのは事実で、豊前の中津城は交通の要衡に築かれている。後に筑前に移った際も
港町として栄えている博多を取り込むような立地に福岡城を築城している。
関ヶ原の戦いの際、主力部隊は長政と共に参陣していた為、九州にいた官兵衛は大友義統との戦いに現状では不利だと判断した。そこで官兵衛は資金を使い軍勢を募集し、3000人以上の浪人を集めることに成功した。
この軍勢を率い石垣原(いしがきばる)で大友軍を撃破することができた。
息子と東軍についていたことから、関ヶ原の戦いの後、黒田家の所領は大幅に加増されることとなった。