さてさて 城めぐりまであと4日です!!

さてもさても、待ち遠しいんやけど、ほんまに回れるか心配・・・・

日本全国の城郭!時間を気にせず回りたいね。

まずは ① 大垣城

牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二の丸のみやったみたいやね。

氏家氏、伊藤氏によって改築か。あんまり知らない人たちや。

へぇ~  池田恒興も城主やってたんやね。

池田輝政は恒興の息子か・・・なるほど

第二次大戦前に一度国宝になってるんやね。

でも大戦で焼けてしまったんや・・・・現代まで残るって本当に大変な事なんやね。

今現在、消失前の外観に近いものになってるらしいやん。

2017年 続日本100名城に選出された。

火縄銃や槍、弓を実際に触れるんやて!!


続いて  ② 墨俣一夜城  (すのまた)

秀吉が一夜にして築いたとされる伝説の出世城!

木下藤吉郎蜂須賀小六らと共に長良川を巧みに利用し、木曾で仕入れた材木をその場で組み立て、舟を使って川を運び、3日間ほどで建てたと言う逸話もあるらしい。

さて ③ 岐阜城

稲葉山城  ここは本当に行っておきたいお城だね。

斉藤道三  信長  また信長はなんでここを天下統一の拠点としようと思ったのか。そこからの景色を見てみたい。

何で尾張じゃなくてここなん?って思うね。  行ってみたら・・・思う事あるんやろか・・・

初めは城下を「岐阜」としたんやね。で、岐阜城か。

「岐」は分かれ道  「阜」は丘・岡の意味  信長は中国の「岐山」と言う縁起のいい文字から取ったみたいやね。

金華山一帯は平成23年に国史跡に指定。城は昭和31年に復興か。

城からは、眼下に鵜飼で有名な長良川、東には恵那山、木曾御岳山、北には乗鞍、日本アルプス

西には伊吹、養老、鈴鹿    南には濃尾の大平野  伊勢湾まで見えるらしい!

さあ 続いて ④ 犬山城  国宝!

現存する日本最古の様式  城下町の古い町並み  中山道と木曾街道に通じる

池田恒興  成瀬家が幕末まで  明治4年天守以外取り壊し  明治24年濃尾大地震で半壊

昭和10年国宝に指定  昭和27年 再指定  唯一の個人所有の城だったが、平成16年財団法人所有に

外観復興天守----文献・絵図・絵画資料・古写真を元に外観を復元したもの

復興天守----天守は過去に存在し、同じ場所に現存する城を参考に、または想像して建てられたもの

模擬天守----存在が確認できない、または特定に至らない状態で建てられたもの

続いて  ⑤小牧城  

織田信長の居城  桜の名所  天守は昭和42年に建ったもの ん?天守閣風?

そこから  ⑥清州城

天才軍師 黒田 官兵衛

天才軍師  59 年の生涯

1546年 兵庫県 播磨に生まれる。(播磨とは)東・中・北・西播磨合わせた地域

21才 光 と結婚

22才 長政が生まれる

31才 秀吉に 姫路城を明け渡す

32才 荒木村重に捕えられ幽閉される

33才 1年ぶりに救出され帰国

35才 鳥取市鳥取城を兵糧攻めで落とす

36才 中国大返しを指示し、山崎の戦い

37才 賤ヶ岳の戦い

41才 秀吉より豊前6群を拝領する (福岡県豊前市

43才 長政に家督を譲る

44才 小田原城 落城

46才 朝鮮出兵

54才 関ヶ原の戦い

59才 京都 伏見 にて死去

現在の姫路城は江戸時代初期に池田輝政により改修されたもの。

秀吉時代の規模は小さかった。それ以前に官兵衛が統治していた頃はさらに小さく、石垣や天守も存在していなかった。

黒田氏の立身の秘密は、商売上手にあったとされる逸話がある。

小寺氏に使える傍ら、広峯神社の加護を受けた「目薬」を売り出し、財を成したとされている。

斉藤道三もしかり、江戸時代の講談等で広まったものだと考える。

鋭い経済感覚を身につけていたのは事実で、豊前中津城は交通の要衡に築かれている。後に筑前に移った際も

港町として栄えている博多を取り込むような立地に福岡城を築城している。

関ヶ原の戦いの際、主力部隊は長政と共に参陣していた為、九州にいた官兵衛は大友義統との戦いに現状では不利だと判断した。そこで官兵衛は資金を使い軍勢を募集し、3000人以上の浪人を集めることに成功した。

この軍勢を率い石垣原(いしがきばる)で大友軍を撃破することができた。

息子と東軍についていたことから、関ヶ原の戦いの後、黒田家の所領は大幅に加増されることとなった。

歴史大好きがやりたいこと

小学生の時から自分の苗字が好きになれなかった。

「 長 (ちょう) 」 って言います。  自己紹介も好きじゃなかった。

すぐに「日本人じゃないやん!」 とはやし立てられるから。

帰って母親に聞いた。「俺らは日本人じゃないの?」

母親は「れっきとした日本人やで!」 と答える。

父親に聞いた。「俺らの先祖は石川県の城主やったんやぞ!穴水城の城主。君主(畠山)が倒れ、その幼子を担ぎ第一老中となったんや。そこから政権を握るために食事に毒を盛ったが、殺すはずのその毒で自分が死んでしまったと言う何ともバカな先祖や!」

と聞いた。小学生ながら、「先祖は城主で地位と権力を持ってたんやなぁ」 な~んてちょっと誇らしかった。

そこからプレイステーションの「信長の野望」にどっぷりはまった。

12歳くらいから今まで、30年もやってきた。新しいのに買い替えることなく、「風雲録」ばっかり。

時間があればまたつけて。長い時でも4時間くらいか。何度やってもまた新しい発見があったり。

日常の生活の中で、登場武将の名前が出てきて、その武将が行った事や、現在まで残る偉業などが紹介されていた

ら、「あ~この武将知ってる。あんまりステータス良くなかったけど、そうやったんや~」 なんて考えたり感心したり。

結局は自分も未来に名前を残せたり、何か大きなことが出来たりしたらいいなって思ってた。

今、建築関係の製造業に携わってる。「お城って今でも建てれるんやなぁ」 って思った。

ってゆうか、現代でも建ててる人、結構居てるんやん! って思ったなぁ。

もう気が付けば45歳過ぎた。そろそろほんまに建てに入りたい。

建てるところも下見に行ってきた。

夢は壮大!!  島に  大きな島に  城をまず二つ建てて  城下町も作り そこだけ時代を遡った国を作りたい。

見た目は木造の帆船で上陸し、関所で入国を許可され、その島で生活している人たちと同じ時間を過ごす。

そこには通信機器や最先端機器、時計も時間も無く、あるのは明るい太陽の下でゆっくりと流れる日常生活だけ。

かまどの薪の匂いと、自然の草や木々の匂い。アスファルトもなくコンクリートも無い、若干砂埃が立つような古臭い光

景。

いま日本にある再現された空間は、現代人が仕事やバイトをしに来ている。観光客相手に。

じゃなくて、実際にそこで暮らす。半年、1年経つと何者にも負けやしない生活感も出てくるだろうね。

そう言う生活をしたい人って世の中腐るほど居ると思う。  また、色んな依存症の人、現代症の人、その空間で生活し

て行くことで癒されて治癒していくと思う。

関西に作る。  カジノ出来るから。  また依存症増えると思う。家族が悲しむし、本人も治せない。

そんな最後の砦みたいな施設が早くに出来たらいいなと思う。

出来たらずっとそこで生活したいし。  生まれて死ぬまでそこで暮らしていけるなら、現代の物なんて何一つ要らないよ

ね。  車の免許も時計も携帯も。下手したらお金も要らないかも。

 

見ましたか? お城総選挙

見ましたか?

お城総選挙!!

お城好きには絶対見逃せない企画ですね。

結論からゆうと、結果はわかってましたよね! お城好きなら

最後の最後で、現存天守の最高峰が大坂城に負けるというのは・・・・・ちょっと・・・って感じがしました。

私は大阪育ちで、事あるごとに大阪城でのイベント、花見・集会・講演会・音楽会で入城する機会がありました。

小学生の時、初めて大坂城を訪れたときは本当にドキドキもので、堀のスケールに圧倒されていました。

そこからワクワクしながら本丸へ入ったとき、正直テンションダダ下がったのを覚えています。

中は近代的な資料館ですもんね・・・資料館は敷地内に別で立てて欲しかった。

小学生ながら、「今、日本に残ってるのは全部作りもんなんや~・・・そりゃあ年月経ちすぎやもんな・・・」って。

それから大人になり、初めて姫路城を見に行ったときはこれまたショックで5時間くらいおったと思います。

「本物や!!」  そのスケールはもはや観光地ではなく、何万人という人々が生涯をかけて守り抜いて来たものだ  という事がひしひしと伝わってきました。

柱一つの大きさ、各通用門の配置であったり、階段ひとつひとつに考えながらあつらえた石であったり。

よくぞ今まで残ってくれた!  奇跡ですね。

30 位  福井県 丸岡城 現存12天守の一つ
      現存天守の中でも日本一古いお城だそうです。瓦は雪や寒さに強い石で出    来ている。(一般は土)
      外壁が茶色のままでしょ。これが古い証拠だそうです。
      とてもきれいなお城で、本丸の入り口は石で出来た綺麗な一本の階段を上   って行き
      中に入るといきなりほぼ垂直に近い階段がありました。上りやすいように ロープが下がってありました。
      年老いたおやじを肩で押し上げながら登りました。

29 位  岐阜城 道三から信長へ
      山のふもとには信長が作った豪華な御殿があったとされる。発掘された礎石からCGもあります。
      こんな御殿に泊まってみたいものです。

28 位  広島城 毛利 輝元
      岡山城は行ったのですがまだここは行けてないです・・・楽しみにとって おきます。

27 位  埼玉県 忍 城  成田 氏
      「のぼうの城」ですね。もちろんこれを読んで頂けてる方ならもうご覧になったことでしょう。
      上映予定が近づいたころ、震災があり、水責めの映像が不謹慎であった為、ちょっと間延びしてしまいました。
      家族で行きましたが、面白かったです。ぐっさんがいい味出してましたね。賢かったのかな?なかなかの曲者      ですのぉ~

26 位  高知城  山内 一豊  現存12天守の一つ
      天守から踊り場をぐるり出来るのはここと犬山城だけみたいですね。ライトアップも綺麗です(日本3大夜城)
      このライトアップも始まりは地元クラブのママが(地元の誇りと)始めたことみたいですね。

25 位  静岡県  駿府城 家康
      富士山(不死の山)が見えるとこで という事で、晩年家康が過ごした城ですね。
      近年、家康が建てた天守と違う場所から天守台が発見されたみたいです。金箔瓦が330点も見つかったとの       事。

24 位  長野県  上田城  真田 昌幸
      難攻不落、守備機能が凄かったようですね。今年の年始に見てきました!
      城の周りも結構な距離で高台になってましたね。なるほどな~!と物思いにふけってしまった。
      1585年 第1次 上田合戦 7000 VS 2000
      1600年 第2次 上田合戦 38000 VS 3000

23 位  石川県  金沢城  前田 利家
      センス抜群の前田家が美にこだわったお城だそうです。行けば綺麗で壮大な外見に圧倒されます。
      (金沢漆器) 華麗で精密  (加賀友禅) 着物  (金沢箔) 金箔の99%が金沢産
      壁 : 金沢城全てがデザイン性を重視した海鼠壁(なまこかべ)で出来ている。
      白い瓦 : 鉛瓦(戦になれば鉄砲の弾に)  酸化すれば白く
      時代が違う石垣 : 石垣の博物館(利家)野面積み(焼失後)切り石積み
                   (玉泉院丸庭園)色紙短冊積=長方形の石を縦積強度よりも景色重視した
22 位  沖縄県  今帰仁城(なきじんぐすく) 世界遺産 北山王
      石灰岩でできた曲線美な城壁 まるで万里の長城    

21 位  愛媛県 松山城  加藤 嘉明 
      標高が高く、ロープウェイで登って行きます。
      重要文化財(隠門・野原櫓・戸無門等)が21棟あり、日本でも3位(1位姫路城・2位二条城)
  
20 位  島根県 松江城  現存12天守の一つ 国宝 堀尾 吉晴
      城下町が残り風情があります。13 m ある石垣は迫力あり。  
      

松江城にしかない柱がある。「包板」と言い、当時は天守や築城ブームの真っただ中、材料不足と低コストで       あった事もあり、柱の上からさらに板を当てがい杭で止めて補強した。天守の308本柱130本がそうらしいで       す。

19 位  岡山県 備中松山城 現存12天守の一つ 秋庭三郎重信 
      標高430mにある山城。ちょっとした登山気分で行かないと大変なことに。
      10月~12月、早朝と日中の気温差の頃よいとき雲海が見られる。

18 位  岐阜県 郡上八幡城  遠藤 盛数
      日本三大盆踊り(郡上踊り)が夜通し行われる。

17 位  北海道 根室半島 チャシ跡群 16~18世紀ころ アイヌ民族が建てた砦
      「日本100名城」にある1番目。レアである。道内には約500か所のチャシがあるが、見学できるのは二か所
      だけである。貿易拠点であり、戦いの砦でもあった。

16 位  福島県 会津若松城鶴ヶ城) 葦名 直盛
      NHK「八重の桜」の舞台。伊達→上杉→松平 戊辰戦争の時に実に8000発の砲弾から耐え抜いた実にタフ       な城。白虎隊も有名。旧幕府軍の中核を担っていた会津藩、約1か月の篭城戦を繰り広げた。
      城内で見つかった「ゆがんだ銃弾」は、溶かして再利用していた切迫した状況を物語っている。
      明治に天守は一度壊されたが、昭和40年に再建された。
      
15 位  愛知県  犬山城  現存12天守の一つ 国宝 織田 信康(信長の叔父)

信長・秀吉・家康が欲しがった城としても有名です。木曽川を港とし物流の拠点であった。
      2004年まで個人が所有していたらしいです。
      柱梁は特殊な削り方で、「ちょうな」を使い削っている。
      1565年 織田家身内の戦い。南の川向伊木山に信長が陣取り、東の寺と南側から攻撃。
           わざと北側を包囲せず開くことでそこから敵を逃がした。(孫子の兵法)
      秀吉  人脈を生かした奇襲攻撃
           川幅400mの天然の堀、鵜飼の船を買収し、池田恒興・犬山元城主を寝返らせ抜擢。
           80mの崖(切岸-人工的に削り取った防御壁)を登り攻撃。元城主が居たから隠し道があったのかも。
      家康  圧倒的な軍事力と兵力で無傷の勝利
           関ヶ原直前ということもあり、10万の兵力で攻めた。

14 位  滋賀県  安土城  1579年 信長
      6階下1階 3階は吹き抜け 2階には能舞台 3階には渡り廊下もあった
      180mの大手道の石段は「天皇の道」と呼ばれ一般市民は通ることを許されていなかったらしい。
      仁王門(重要文化財

13 位  神奈川県  小田原城  1400年 大森氏 北条家100年の居城
      21万の秀吉軍も攻めあぐねた鉄壁の要塞。
      「総構」という構造で、周囲9kmの街全体が要塞となっていた。
      
12 位  滋賀県  彦根城  現存12天守の一つ 国宝 1606年 井伊 直継・直孝 
      飾り屋根(破風はふ)が18有り優美な城。
      見た目とは裏腹に、最強防衛機能を持つ城。
      関ヶ原の戦い以降、西国の大名ににらみを利かす為に監視役として家康が監修した。
      戦いの城
      ①魔の登り坂道--正面には櫓があり、段差や歩幅の違う石階段
      ②突然現れる袋の鼠広場(大堀切)3方向から攻められる。
      ③天秤櫓--落とし橋 本丸へと続く木造の橋。落とすとかなりの高さがあり容易には登れない。
      ④天守には外からは見えなく施した隠し狭間が82か所もある。

11 位  江戸城  1556年 太田 道灌  現皇居
      敷地はもちろん日本最大 東京ドーム50個分230ヘクタール(大阪城106・仙台44・名古屋35)
      風化しにくく耐火性のある「伊豆石」で出来ている。今も伊豆には「残念石」として残っている。
      
10 位  青森県  弘前城  現存12天守の一つ 1810年 津軽 信枚
      正面から見た城(破風3つ)の情景と、背面から見た情景(破風無し)が異なる。
      石垣修繕に天守を移動した。「曳屋」500年以上続く伝統建築工法。70m移動に2ヵ月を要した。

9 位  京都府  二条城  国宝 世界遺産  1603年 家康
     大政奉還を発令した場所。震災により外れた金具(菊)の下から葵の紋(徳川家)が出た。
     
8 位  北海道  五稜郭  
     海外の城郭をモデルに星形が特徴的。 先端を「稜堡」と言い、死角が無い。

7 位  兵庫県  竹田城  1443年 山名 宗全 
     雲海で有名な城跡。雲海は、晩秋10月日の出~8時頃が時期。標高353.7m。日本のマチュピチュ

6 位  愛知県  名古屋城 1610年 家康 
     天守閣の述べ床面積が日本一。金のしゃちほこ。三尺の透かし堀欄間--下からの眺めが一番になるように
     計算され斜めに彫られている。装飾金具--たがね手打ち
     職人達が400年前の姿を10年(130億)かけて復元した。
      
5 位  沖縄県  首里城  世界遺産 1200年後~1300年 尚 巴志 王
     中国・日本・琉球のミックス建造物。
     守礼門---中国「三間牌楼」がモデル
     稚児柱---赤い屋根瓦は厳島神社がモデル
     石垣---サンゴ石灰岩
     彫刻---龍の爪ふつうは3本 中国皇帝の龍は5本爪 首里城正殿の龍は4本爪(中国に気を使ったとも)
     玉陵(たまうどうん)---国宝 国王墓

4 位  熊本城  1590年 加藤 清正
     石垣20mの剃り返り(武者返し)が見事。
     2019年10月5日から天守付近まで観光出来るように。2027年完全復興を目指す。

3 位  長野県 松本城 現存12天守の一つ 国宝 1593年 石川 数正・康長 
     娯楽施設(家光の月見櫓)が増築されたお城。毎年保持のため塗り替えを行っている。
        
2 位  大阪城  1583年秀吉 
     石垣---32mは日本一  敷地面積はドームの22個分  
     豊臣政権没後、2代秀忠が築城  秀吉の頃の大きさからすると4分の1の大きさです。

1 位  兵庫県  姫路城(白鷺城) 世界遺産 国宝 現存12天守の一つ 1609年 池田 輝政
     8の建造物が国宝であり、74が重要文化財


       

 

日本の名城巡り 遂に決行!!

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最初で最後になるかもしれない6日間に19の城を巡る観光を決行することにしました。

阪堺市からスタートです!

4月28日
岐阜県  大垣城
       墨俣一夜城
       岐阜城
愛知県  犬山城
       小牧城
       清州城   
       名古屋城       
       岡崎城
       吉田城 

 29日
静岡県   浜松城
       掛川城 
       小山城
       駿府城
 
 30日
神奈川県 小田原城
東京都   江戸城(皇居) 
 
 5月1日
栃木県  日光東照宮
       日光江戸村

 2日
福島県  会津若松 鶴ヶ城
群馬県  沼田城

 3日
長野県  松本城
滋賀県  彦根城                  

車で回ります!

中でも東照宮と江戸村へ行くことが今回の目的であり

一番の楽しみでもあるので、新幹線や夜行バス、飛行機で成田経由

等もありますが、あえて勿体ぶって、付加価値が付くように

4日間かけてたどり着くことにしました!

日中はなるべく下道を走り、地域の景色なども楽しみ、

お腹が減ったらその辺で食べる。

いつどこに居てるのか見当も付かないので、宿もその辺りで探す。

若しくは車泊になるかも。

すごい贅沢な休日になるね。

往復で約1700km  走り続けたとしても 40時間

これでもまだまだ行きたい所があるので、次回の連休は

大阪より西を目指し予定を組んで行きたいと思っております。

また帰って来たら結果や写真をアップしたいと思っておりますので、

お楽しみに!

早くにくじけて引き返して来たらすみません・・・・・

5月の連休明けを楽しみに!

関東の覇者 後北条 3代目 氏康

1545年 またまた反北条大連合が成り今度こそ北条家消滅の危機にさらされる。
南からは武田・今川連合軍が河東を、北からは公方・上杉軍8万が河越城をと同時に攻め込んできたのである。
そもそも北の足利晴氏は同盟国であったが、上杉憲政が大連合計画を持ちかけ賛同してしまった。
この大国大連合に南北から挟み撃ち、それも同時と来たから今度こそ絶体絶命である。
この時、氏康は今川・武田連合軍と河東で対峙し交戦を繰り広げていたが、北の河越城にも大群が押し寄せ包囲しているという情報が入り進退窮まった。当然ここで河越へ向かえば今川・武田連合軍は勢いそのままに進軍して小田原城が危ない。
がしかし、このまま河越城を見捨てると、公方・上杉連合軍も勢いが付き一気に進軍し武蔵は陥落するであろう。
この時まさに奇跡が起こった!!
信濃村上義清が武田の背後をこの時ばかりと一大勢力を上げ進軍してきたのである。
武田信玄は帰国を急ぐあまり今川と北条の和睦を決定し、河東返還のみとしたのである。
偶然?にも助けられ南の安全を確保できた氏康は、すぐさま8000の兵を連れ北上し河越城へと向かった。
河越城では3000の兵が篭城しており、もはや時間の問題であったため、城を明け渡すと申し出たが、
連合軍はこれを拒否。もはや決戦あるのみとなった。
6か月に及ぶ篭城の間にもはや兵糧も尽き力尽きていた。氏康も何度も和睦の交渉を行ったが、そもそも10分の1にも満たない兵力では交渉にもならず、風前のともし火であった。
氏康は最後の賭けに出た。夜襲である。河越城から3000騎+8000騎で一気に討って出た。
包囲軍も大軍であったがゆえに油断していた。まず扇谷上杉朝定が戦死し、山内上杉憲政が敗走、足利晴氏も敗走し、空前絶後の大大勝利となったのである。
この戦いにより扇谷上杉家は滅亡した。また武蔵北部のほとんども北条家に服従となった。
1552年 北条氏康 上野を勢力圏に
上杉憲政 討伐に出る。上野領内の西上野衆が北条方に付いた事もあり、一気に優位となった。
また、平井城攻略の際、憲政の馬廻役が北条方に付き、憲政を城外へ追い出した事で憲政は敗走となった。
逃走の際、頼りにしていた足利長尾氏からも入城を拒否され、越後の長尾景虎を頼って落ち延びた。
上野全土も北条の勢力圏となった今、関東には北条に立ち向かえる勢力は無いと判断し、古河公方足利晴氏家督を子に譲り氏康に屈した。これにより何と下総までも北条の勢力圏となったのである。
1554年 今川義元が西の三河に進行中、その隙をついて氏康は駿河へ侵入した。これを知った武田信玄は同盟関係でもあったことから大軍を率いて氏康阻止へと動いた。
しかしこの大戦を善しとしない者がいた。今川軍の軍師大原雪斎である。
大原雪斎は今三国が争い共に戦力を失っていくことの不利益を説き和平調停を行った。
ここに甲・相・駿の三国同盟が成った。
1556年 氏康は結城政勝と提携する。下野西部から常陸南部まで拡大された。
1559年 氏康(45才)は 氏政(22才)に家督を譲る

関東の覇者 北条家 初代 北条早雲  2代目 北条氏綱

1493年 北条早雲 が堀越公方 足利茶々丸 を追放し伊豆を制圧した。
伊豆の西隣、駿河の今川氏に属していた北条早雲は伊豆の混乱に乗じて東の扇谷上杉定正の手引きにより
韮山城を攻略することに成功した。ここに扇谷上杉と北条の同盟が成る。これにより山内上杉家との対立も一層深まった。また同じくして京都の政権も乱れており、戦国時代の幕開けとなって行く。
1945年 早雲は小田原城を攻略した。
扇谷上杉定実が病死し、領内が混乱の中、早雲は同盟関係を無視し、鹿狩りと見せかけ箱根山中に入った。夜のを待ち、暗くなると牛に松明をつけあたかも大群が小田原城を完全に包囲したように見せかけて扇谷上杉の城を攻め落としたのである。
1510年 上杉軍が越後の長尾為景との戦いに気を取られている間に、早雲は相模へと出陣した。
上田政盛らを寝返らせたり、いくつかの城を攻略した頃、知らせを聞いた扇谷上杉軍がすぐさま南下し早雲を退陣させた。
1512年 早雲は古河公方家 足利高基の支援をもとに再び相模の攻略に着手する。
難攻不落と言われた岡崎城を陥落させ、大庭城も攻め落とし、玉縄城も強制的に没収した。
ここに伊豆と相模を北条早雲が掌握した事となった。ここからは玉縄城主として次男の伊勢氏時を配置して拠点とし関東制圧に乗り出すこととなる。
1518年 北条氏綱 31才で家督を継ぐ
1519年 早雲64才?で 死去
これにより二代目氏綱が小田原城を本城とした。
1524年 氏綱はついに武蔵へと攻め入った。
扇谷上杉勢から太田資高の寝返りにより簡単に江戸城を攻略した。
続けざまに二つの城を攻略した。武蔵南部は北条氏のものとなった。
これに対し扇谷上杉は、山内上杉に応援を要請し、また、甲斐の守護 武田信虎とも協力し
反撃を開始してきた。この猛反撃により氏綱は後の二つの城を返還し、和睦することとなった。
1525年 氏綱は和睦を破り岩付城を再び奪還するが、この時北条家最大の危機が訪れる。
扇谷上杉家山内上杉家古河公方=甲斐武田=真里谷武田=小弓公方安房里見
という反北条包囲網の大連合が成ったのである。氏綱と北条家はまさに四面楚歌に陥った。
しかし、北条方は里見勢からの鎌倉の鶴岡八幡宮襲撃のみであり、
この頃、小弓公方足利義明の間で和睦が成立し、真里谷武田・里見も氏綱と停戦。
現状房総諸勢は包囲網から脱落していたとの見方もある。
1530年 嫡男 氏康15才 扇谷上杉家多摩川河原の小沢原で戦い大勝利を収める。
1533年 房総里見家で内紛が起きた。氏綱は里見義尭を援助したことで北条方に付いた。
また同じくして真里谷武田家でも内紛が起き小弓公方の勢力も弱体化した。
1537年 扇谷上杉家が世代交代するのを見計らいすぐさま武蔵の扇谷上杉本拠地河越城を落し、
三男為昌を城代とした。
同年 今川の世代交代にお家騒動が起こり、氏綱が指示した今川義元家督を継ぐ。
しかし義元は長年北条と共に敵対してきた甲斐武田家の娘を娶り甲駿同盟を結んだ。
この裏切りに激怒した氏綱は今川との同盟も主従関係も破棄し駿河の河東地方へと攻め入り占領した。
また同じくして房総の武田を制圧に里見勢へ援軍を送ったが、逆に反撃に遭い北条は房総を追い出された形となった。
この時、西に強国甲斐武田・今川連合軍、北に上杉、東に足利義明を中心とした房総諸氏と反北条勢に囲まれ、完全に逃げ場を失う事となった。再三の四面楚歌である。
1538年 氏綱はまず包囲網を解く必要があった。利害関係の一致する古河公方足利晴氏へ娘を嫁がせることに成功した。古河公方との盟約を成立させたのである。これで必勝態勢を整えた。
氏綱は氏康と共に小弓公方足利義明・里見義尭連合軍と激戦を繰り広げ大勝利を収めた。
これで北条家は武蔵南部から下総にかけて勢力拡大に成功したのである。
また、関東公方足利氏の内紛も義明の死により足利晴氏が総括となり、氏綱は関東東管領職を命じられ政治的地位も著しく向上する事となった。
また翌年、氏綱は娘を嫁がせていることから御一家の身分も与えられた。
1541年 氏綱 病で死去 享年 55 才  氏康が家督を継ぐ 26 才